トラウマを超えて

 「欧米に比べて、日本ではベンチャー企業が育ちにくい」。そう指摘されてからずいぶん時が経ちますが、この問題は未だ完全には克服されていないようです。
 もちろん、昔に比べればベンチャー企業を設立する人は増えています。しかし、これが「欧米に比べて」となると、正直まだまだなのかなと思う人は多いのではないでしょうか。
 原因としては、終身雇用制に慣れてしまった、教育、リスクを嫌う国民性、投資に対する考え方など、いろいろ挙げられていますが、正直これだという答えは出てきません。

森勇介教授 「原因は幼い頃のトラウマだ」。大阪大学大学院工学研究科教授の森勇介氏は、こう指摘します。森氏は、波長変換結晶であるCLBOやタンパク質の結晶育成技術を開発、これらの技術をもとに(株)創晶や(株)創晶超光など、四つのベンチャー企業を設立してきました。
 
 森氏は、自分自身の事を昔からプレッシャーに弱かったと振り返ります。高校の卓球部では、顧問の先生が来ると途端にシュートが入らなくなり、その事で怒られると余計にシュートが入らなくなってしまう。友人からは「おまえ、本当にプレッシャーに弱いな」と、よくからかわれたそうです。その性格は大人になっても変わりませんでした。

 森氏の父親は大変厳しい方で、幼い頃によく怒られたそうです。それも非常にきつい言葉で怒られ、父親が物凄く怖かったと述べています。顧問の先生は、その父親と性格がよく似ていたそうです。

 2001年の1月、森氏はサンフランシスコでの国際学会の帰りの機中、不思議な雰囲気を持つ初老の女性と偶然、隣の席になりました。しばらくして女性が日本人だと分かり、森氏は職業を訊ねました。女性は「自分は心理学者だ」と答えました。もともと心理学に興味があった森氏は、大阪に着くまでの間、ずっと質問をし続けたそうです。
 「なぜ、日本では産学連携やベンチャー起業が成功しにくいのか」、「なぜ、学級崩壊は起こるのか」といった質問もしました。女性は「日本の問題はトラウマが原因である」と答えました。森氏は「トラウマが原因だったらどうしようもないのでは?」と、さらに訊ねました。女性は答えました。「最近、トラウマを取る方法を開発した」。

 女性の名前は田中万里子氏、サンフランシスコ州立大学カウンセリング学科の名誉教授でした。そして、彼女の開発したトラウマを取るメンタルトレーニング法がPOMR(Process Oriented Memory Resolution)でした。森氏はその時、自分がプレッシャーに弱く自信が持てないのは、もしかしたらトラウマが原因ではないかと思ったそうです。

 5月、再来日した田中氏に阪大工学部で講演会とPOMRによるトラウマ除去のカウンセリングを実施してもらいました。予想に反し会場は満員、講演1時間に対し質疑応答は何と2時間近く続きました。森氏もカウンセリングを受けました。

 トラウマとは幼少期にものすごく怒られたり、笑われたりして恥ずかしい思いをした過去の嫌な経験を潜在意識が覚えている事が原因だと言われています。森氏は幼少期に真っ暗な小屋に閉じ込められた事を鮮明に覚えていました。
 発達心理学の専門家である田中氏は、暗闇は子供にとって最も恐怖を覚える場所であって、一番やってはいけない事だと指摘しました。自分が悪いからあんなに厳しい事をされたのだと思い込み、その厳しい事をした父親に逆らうと、もっと大変な事になるという事を潜在意識が覚えている。それこそがトラウマの原因だったのです。

 カウンセリング法は、その時の自分が駄目だから怒られたのだという思い込みを、イメージの中で「そうではない」と修正するものでした。田中氏は「今のあなたが、泣いている過去のあなたを助けてあげなさい」と指示しました。
 「あなたが怒られたのは、あなたがものすごい悪い事をしたからではなく、たまたま父親が言い過ぎただけだよ」と癒してあげる作業を続けていく内に、小さい頃の自分は少しずつ笑顔になっていきました。そして、笑顔が最大になるまで作業を続け、さらに幾つかのステップを踏んで潜在意識を塗り替えていきました。
 
 最初はこんな事でトラウマが取れるのかという感想を持っていた森氏でしたが、後日奥さんが「トラウマが取れている」と驚いた時、その効果をはっきりと認識したそうです。
 
 こんな事を言ったら怒られたり、馬鹿にされるのではないかという不安は解消され、自分の思っている事を相手に、素直に伝える事ができるようになったそうです。
 相手の話している事も、相手の言い方が気に食わないからこれ以上は話したくないなど、怒りが先に出るような事もなくなり、素直に聞けるようになりました。
 自分にはできない、無理だという悲観的な考え方から、出来そうな予感が持てるようになり、前向きになれたと言います。
 起こった事は必然であるから後悔しないという気持ちにもなれ、倒産したらどうしようといったベンチャー起業にありがちな不安もなくなっていったそうです。

 森氏氏は、トラウマの解消がイノベーションの創出とベンチャー起業に繋がり、プロジェクトの活性化をもたらすと述べています。

 盲導犬の訓練はとても厳しいそうです。その訓練に耐えられるようにするため、生まれてからの1年間は子犬を溺愛してあげなければならないと言います。犬はそれによって自分が愛されているという安心感を得る事ができ、反対に暴力を振るわれたりすると、見捨られるという不安感が先行してしまい、盲導犬として上手く育ちません。
 森氏は指摘します。心の筋トレは心の骨折(トラウマ)を治してからだと。トラウマの解消はとても大切なのだと。

 森氏は「心理学的アプローチによるベンチャー企業創成」というプロジェクトを立ち上げ、大学の教員から企業のグループリーダー、医学部の先生、プロ野球選手やプログラファーに至るまで、多岐に渡る人達がこのカウンセリングを受けました。

 そして2013年、森氏は教職員を対象に心理カウンセリングを行なうベンチャー企業(株)創晶慶心を設立します。カウンセリングによって、研究室は和やかになり、予算申請も通るし、研究も楽しくなって、就活まで上手くいくといった実績を上げているそうです。

 森氏には人生を変えるもう一つの大きな出会いがありました。高野山大阿闍梨の中村公隆猊下との出会いです。中村公隆猊下は、廃仏毀釈の影響で長い間、廃寺となっていた鏑射寺を久邇宮朝融王殿下が戦後の日本復興を祈願して再建した際に住職に抜擢された方です。

 森氏は、中村公隆猊下から様々な教えを授かったと「大阪大学工学会誌テクノネット(2016年7月号)」に書いています。プロジェクトが上手くいかない時に相談したところ、中村公隆猊下は「リーダーの仕事で最も重要なことは味方を増やすこと」、「それには慈悲の心が本質となる」と教えてくれたそうです。
 その教えにより、森氏はプロジェクトの中でうまく機能しないメンバーをどう扱うか、プロジェクトから外すというのは一番簡単な選択肢だが、それはリーダーの度量が小さいことを示しているに過ぎないと思うようになりました。
 どのような人にも出来る事、出来ない事があり、その人に向いた仕事を与えるのがリーダーの仕事であり、そのためにはどのようなメンバーでも心から認めて、適材適所で頑張ってもらえるようにするというのが、慈悲の心ではないか、今ではそう思っているそうです。そして、その慈悲の心を発揮するには、トラウマの解消が不可欠だと実感しています。

 中村公隆猊下が行なってきた修行は、長期間の断食を行なうなど、まさに生死の境目を彷徨うような修行です。その事によって感性は研ぎ澄まされ、人間の個々の細胞は個体維持のために潜在能力を発揮するようになります。

 今の日本はあまりに安全・安心であるため、日本人は危機を察知する能力が衰えてしまったのではないか。森氏は危惧します。さらに、日本人は優秀で敏感であるがゆえに、気を遣いすぎて苦しんでいるのではないかとも指摘します。
 
 森氏は、「正しい」という字は「一旦止まると書く」が、正にトラウマを解消し、どのような場面でも「カチン」とならないで、「一旦止まれる(直ぐに冷静になれる)」慈悲の心に溢れた精神状態がリーダーの心得の出発点であると述べています。

 森氏は、今ではそう気付くきっかけを作ってくれたあの厳しかった父親に感謝しているそうです。

(株)創晶慶心の連絡先:info@sosho-ohshin.jp

※本稿は、6月に東京・神楽坂で開催された日本フォトニクス協議会での森氏の特別講演「心理学的アプローチによるプロジェクト活性化とイノベーション創出」と大阪大学工学会誌テクノネット(2016年7月号)をもとに纏めたものです。

編集顧問:川尻多加志

 

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